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大河ドラマ「太平記」

足利尊氏と佐々木道誉の人間関係に見る、「友」とは?


普段、日常生活において、我々は友人知人ひいては親友、仲間と言う表現を使う事がある。その定義は人それぞれで曖昧であるが、ある程度似通ってもいる。友人以上と定義する場合、一緒に連む事が多かったり、困った時は相談したり、助け合ったり。と言った部分は一般的な共通項だろう。
そもそも、人は色んな事に対し、モノの尺度を決めたがる性質を持っていて、対人間関係についてもそうである。
その結果、友人という枠組みの内にいる人だと認識していた人物からの裏切りにあうと、その動揺は激しい。そもそも相手はそう思って居ない場合もある。
個人的に特定の人物との関係性を第三者に説明する時、「友人」あるいは「知人」という紹介は出来る限り避けたい。昔はそのような定義に拘っていた時もあったように思うが、今は逆である。
友人とした場合、馴れ馴れしい感じもするし、知人だと逆に冷たい感じもする。
相手との認識のギャップでもそうだが、自分自身の認識としてもどちらも”しっくり”こないのである。
どちらにせよ自分と相手に対して、ある種の「拘束力」を持つ感覚があるのだ。
友人であれば、「外に出るな」
知人であれば、「中に入るな」
拘束力とは言い過ぎかも知れないが、このようやニュアンスが暗に含まれる。
これは、どんなに打ち解けた相手であってもそうだ。

別に友人、知人という表現を否定するつもりもないが、敢えて強調する必要もないとも思っている。
考えてみると、友人知人という表現を意識する時に限って人間関係に悩むものだ。
必要以上の拘りは思考範囲と行動範囲を限定してしまう。

そう考えると、大河ドラマ「太平記」に出てくる佐々木道誉の思考と立ち振る舞いは理想的である。

北畠親房の使いで足利邸を訪れ、尊氏(真田広之・右)と晩酌する佐々木道誉(陣内孝則・左)


佐々木道誉は「バサラ大名」と呼ばれ、常識に捉われない派手な衣装や立ち振る舞いを見せる。それは人間関係においても同じで神出鬼没と言っても良いほど、基本的には何処にでも現れ、誰とでもそれなりに上手く溶け込む。
それ故に、多くの場面で政治的に暗躍する活躍を見せる。

長崎円喜に「あなたは同じ志の人だと思っていたが・・」と言うニュアンスの事を言われたり、北畠親房は足利尊氏に「こちらと親身にしているかと思っていたら、あちら側に入れ込む様子であったり、忘れた頃にまた顔をだしたり・・」と掴みどころが無いという様な様子で評している。

対象的に、足利尊氏はどちらかと言うと素直で不器用な人物に描かれ、道誉に「取引」をした方が事がスムーズに進むので、そうした方が良い。とアドバイスを受けるも、「思うところを帝に申し上げるまで!」として受けなかった。

佐々木道誉は源氏の者として基本的に終始、足利尊氏との交流を持ち続けるが、必ずしも味方であり続けるという保証はない
自分に害があると判断すれば、平然と裏切るのである。帝に忠誠を貫き通した楠木正成とは対照的である(こちらの方が日本人好みだが・・)。
しかも、尊氏本人へその事を公言するのである。裏切っているが、「裏切るぞ!」と予告しているのである意味裏切りではない。

また重要な折には、足利尊氏は佐々木道誉に対して「友だと思っている」と告げるシーンが何度が登場するが、佐々木道誉が誰かに真剣な意味での「友」という言葉は使わない。

尊氏は道誉に対して「助ける」場面が幾つかあるが、道誉が尊氏を「助ける」場面も幾つかある。しかし特筆すべきはその恐るべきタイミングと重要度である。とくに31話の道誉の登場は感動する。

足利尊氏は、関東で起きた反乱を平定するため、そして同地に居る弟直義や妻子の窮地を救うための出陣の許しを後醍醐帝に請うも認められず京に足止めを食らう。これが後醍醐帝と足利尊氏の懐を分かつ決定機になるのだが、足利邸では高師直たち家臣たちの憤りは凄まじく、尊氏本人の苛立ちや緊迫感も見事に描かれている。

そこへ足利尊氏の忠臣、一色右馬介が「もはや猶予なし」の一報を持って帰参する。
右馬介「もはや、自分の身は・・自身で守る他ありませぬ」

仕方ないとして、帝の許しなしの出陣の覚悟を決めた尊氏の元へ佐々木道誉の登場である。
しかも甲冑姿。
足利尊氏の「そのお姿は?」
佐々木道誉「そろそろ出陣される頃かと思いましての。いの一番にはせ参じた次第。都で公家に立花を教えるのにも飽きてきましたのじゃ。」

心揺さぶられる場面である。

また別の時には、尊氏が帝から敵視されショックで寺に篭ると、「拗ねてると裏切るぞ!」と平然と裏切り、尊氏が立ち上がると、また舞い戻る。
高師直から「一時は八つ裂きにしても足らねお方と思いましたが、また肝心なところで戻って来られるとは、見事な軍略」
と言われると「節操がないだけでござるw」と返す。
尊氏も「戦に節操は禁物なのじゃ」
道誉「そう!戦に節操は禁物なのでござる!」
と場の笑を誘う。

さらには、室町幕府を開き将軍となった尊氏に、道誉は「側近と言えど、御用心めされよ。天下人とはそのようなものだ」と諭されると、尊氏は「昔からの友でもか?」と訊き返す。
道誉は「このような事に友も身内も関係ない。」と返すが、さらに尊氏も「信じねば、将軍などやれない。」と返し、ついには道誉は「敵わぬな」とその人柄に折れてしまう。

ドラマのクライマックスで尊氏は
「初めて会った時から生涯の友と思っていた」と道誉に言う。

初対面で調子の良いことをまくし立てる佐々木道誉に対して、足利高氏が不信感丸出しのシーンを思い出し、嘘つけ!wwとツッコミたくなるのはご愛顧だが、この2人の関係性は実に理想的に描かれている。

あなたには、この人は「友人」なのか「知人」なのか迷う人が居ないだろうか?
私には、そんな人ばかりである。
それらの定義は「結果論」だと思うのだ。
先にそれを定義してしまうと、
「友達だと思っていたのに!」
となるのである。
間違っても「知り合いだと思っていたのに!」なんてセリフは聞いたことがない。
これは、相手に対してなんらかの「期待」をしていたと言う事の現れであり、相手にしてみれば「拘束」に他ならないのである。

足利尊氏と佐々木道誉の関係性にはそれが無いのである。
(勿論、ドラマ的に脚色してあり、31話の佐々木道誉の参上シーンなどは盛り上げる為の演出だろう。)
尊氏は道誉に対して「友」と言う言葉は使うものの、彼個人に対して、過剰な期待や縛りは一切ない。

誰にも何も期待しない。
と言うのは寂しい気もするが、逆に友人知人の垣根なく誰に対しても想いを馳せる。と言う考え方も出来、単純な孤独ともまた違うのではないだろうか?

ある人が「友とは妄想である」と言っていた。
確かにその通りなのだが、ドラマの足利尊氏と佐々木道誉を見ていると、そういう概念とは根本的に異なる、友という次元では言い表せない関係性なのではないかと思う。

友人知人の人間関係に悩んでいる。と言う人にも、大河ドラマ太平記はオススメである。


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